5.いつか大きくなりたい

納得いく文章にならないまま提出した初めての記事。
その記事を載せた新聞が完成し、部室へと運ばれて来ました。
手にとって、やっぱり最初に見るのは自分の書いた記事。ドキドキしながら中を開きました。

そこには、およそ私が書いたとは言えない記事がありました。
先輩の手直しが入り、最終的に30行のうちの15行くらい、私が書いた部分が残っていました。
残り半分は全て、先輩が読みやすい文章に直してくれていました。
今読み返すと本当に私の書いた元の文ではわかりづらく、先輩が直したのも当然なんですが、やっぱり悔しかったです。
先輩に直されたことがじゃなくて、直さないといけないような文章しか書けなかったことが。
あれだけ何度も何度も書き直して、それでもだめだったという結果が。

悔しさが消えないまま、1面から順番に他の人たちの書いた記事を見ていきました。
1面を飾ったのは、チームを引っ張る主将の記事。
写真がとてもきれいで、レイアウトもそれをうまく生かしていて。
私は今まで見てきた自分のとこの紙面の中で、後にも先にもこれが一番素敵な1面だと思っています。

その1面のレイアウトを担当したのは、3年のYさんでした。
レイアウトもさることながら、私はYさんが書いた文章がとても印象に残りました。
毎回、1面を担当する者が執筆するコラム記事。
内容はスポーツに限定されず、スポの紙面の中で唯一、書き手が自由に自分の考えを書いていいスペースです。
Yさんが書いたのは、親への想いでした。
そのシーズン、逆転満塁本塁打を放ったある選手のお父さんが、試合後、息子の晴れ姿に感動して涙を流しているシーンがありました。
Yさんのコラムはそのことで始まり、大学生という微妙な時期の親との関わり、離れて暮らしている親子の互いの気持ちなどを描き、
最後に、新聞が刷りあがると自分の書いた記事に印をつけ実家へと送っているのだと書いてありました。

読んでジーンとしました。
私も親元を離れての一人暮らしだったので、Yさんの書いていることがすごくよくわかって。

初めて制作に携わった野球特集号。
刷りあがった新聞を持ち帰った夜、私も実家宛ての住所を書いた封筒を用意しました。
新聞の、自分が書いた記事のところに
「初めて書かせてもらった記事です。いっぱい直しは入ってるけど…」そう書き記した付せんを貼って。
それからスポを引退するまで、毎回自分たちの作った新聞は実家に送り続けました。
母は「毎回送らなくても、帰省のときにまとめて持って来てくれればそれでもいいのに」と言いましたが。


新聞が完成してしばらくすると、今度は集まって「反省会」があります。
完成した紙面を見て、それぞれの意見を各学年の男女別にまとめ、「アンケート結果」という形でプリントアウトして全員に渡します。
私にとって後悔の念ばかりが残った初めての記事でしたが、アンケートを読むとそれをほめてくれてる人がいました。
その人は、記事の最後の部分の書き方が好きだと言ってくれました。
さっきも述べましたが、そこは私にとってこだわりのあった部分です。そこをほめられて、ちょっと嬉しかった。
これから絶対にもっといい記事を書いてみせる、とやる気が出て来ました。
今度はこんなに手直しされることなく、自分の言葉をそのまま使ってもらえるように。

そして早くも2年後の目標まで浮かんでいました。
私も今回のYさんみたいな印象に残る紙面を作って、読む人の心に残るコラムを書きたい。


初めて記事を書くことになったとき、まず図書館へ向かいました。
記事のキーワードになる、4人の高校時代のことを調べに。
甲子園を逃した2年秋の試合と、高3夏の最後の試合の記事をコピーして読みました。
それから、30行の記事と同時に、4人のうちの1人については選手紹介記事も書くことになりました。
スコアブックをめくってその選手の今季の全打席結果をルーズリーフに書き出し、成績をまとめて出塁率まで計算しました。
今ならパソコンの表計算ソフトを使えば簡単なのでしょうが、当時は全部手書き・手計算で(←電卓使えや)。アナログ人間だったもので…
コピーしてきた新聞と、手書きのルーズリーフ、そして初めて書いた記事の元原稿。全部、捨てずにとっておきました。
その後、引退するまで読み返すことはなかったけど、これが原点だと忘れずにいるために。


6.握手

少し話が前後しますが、結局その秋、ウチの大学は優勝を逃していました。
勝ち点3同士で迎え、事実上の優勝決定戦となったカードで2連敗。これで自力優勝が消えたのです。
初戦はナイター。またしても寒い二階席で、固唾を呑んでオレンジ色に照らされたグラウンドを見ていました。
そして翌日の2回戦、この日もチームの調子は上がらないまま。主将にホームランが飛び出しただけで、あとは成す術なく4−1で敗戦。
それまでの試合、苦しみながらも粘って勝ってきてたので、今回もきっとやってくれると思っていました。
少なくとも1勝1敗のタイに戻し、3回戦まで持ち込んでくれるだろうと。
それがまさかの2連敗。先輩はその試合の記事に「悪夢の2連敗」と大きな見出しをつけました。

その2連敗した試合、最後のバッターになったのがOさんでした。
9回表、2アウトランナーなし。初球を打ってショートゴロ。
一塁へヘッドスライディングしたOさんは、アウトのコールを聞いた後もしばらく立ち上がれず、ベースの上で仰向けになり天を仰いでいました。

私がOさんたちの取材に行ったのは、それから3日後のこと。
そう、私の書いた記事に登場する4人のうちの一人が彼だったのです。
3日前の敗戦についてこちらからは触れませんでしたが、彼は自ら「あの日はまぁ、ちょっと…ヤケ酒飲んだりもしたけど…」と言いました。
私がその日聞こうとすることは、それよりさらに昔の傷に触れるものでした。
高3の夏、最後の試合は彼のサヨナラエラーで終わっています。
4年経って、もう今さら赤の他人に触れられたくないことかもしれません。
彼はうまく冗談を交じえながら、悔しい思いで終わった当時のことを振り返ってくれました。
けれど、それを聞いている私は、彼の心の古傷を今さら掘り返してしまうことに申し訳なさを感じていました。


Oさんのことについて少し説明しておくと、彼は、私たち1女のアイドル(?)でした(笑)
もともとひょうきんで、取材でも良くしゃべってくれる選手だそうです。
私たちが彼のことを知ったきっかけは、部室にあった1枚の写真でした。
部室の床に落ちていた写真を拾いあげると、そこに2、3人の選手が映っていました。
先輩に「これ誰ですか?」と尋ねると「あぁそれ、Oちゃん。」と返ってきました。
そしてなぜか頼んでもいないのに「その写真、あげるよ」と言われたのです。まさかそこで「いりません」とは言えず(爆)私がもらって帰ることに…
他の1女にも「何かよくわかんないけど、もらっちゃったよ」と見せました。
一方、先輩は先輩で本当に写真をもらって帰った私を珍しがり、
部誌に「1女が部室にあったOちゃんの写真を嬉しそうに持ち帰る。1女の間でOちゃんフィーバーか?」と書く始末。…なんか勝手に脚色されてる…
それを読んだ他の先輩たちも「
なぜOちゃん」「1女のアイドルか…」と真に受けてしまい、完全に皆から誤解されました(汗)

けれど実際それがきっかけでOさんの存在を知り、秋は試合に出てくると応援するようになりました。
「ウソから出たマコト」ではないですが、本当に1女みんなでOさんファンになっていました。代打で登場してヒットを打つと、それだけで嬉しくて。
そして、私が30行の記事とOさんの選手紹介を担当することになったのです。
取材で初めてお話するOさんは、噂どおりよく話してくれる人でした。
取材中さんざんおちょくられ…もとい、笑わされました。
選手紹介の文はほんの数行の短いものでしたが、最後の試合、活躍してくれ!と願いを込めながら書きました。


リーグ最終戦、彼の最後の打席は代打で登場してデッドボールでした。
試合後、最後の取材に行かせてもらいました。
どうしても言いたかったのです。あんなに色々話してくれたのに、たった30行で、うまく書けなくてごめんなさいと。
会ってそう言うと、「あれさ、新聞にオレがヘッドスライディングして倒れてる写真載ってたじゃない。あの写真を載せるのやめて、
その分を記事に回せば良かったのに」そう言って笑いました。
今日で野球をするのは最後。けれどそこに涙はなく、最後まで饒舌なままのOさんでした。

最終戦の夜はスポで打ち上げがあり、その帰り、近くで同じように飲んでいた野球部の人たちと会いました。
近くで盛り上がっている野球部の人たちを見ていると、Oさんがこちらにやって来ました。
そして「取材してくれてありがとう」と向こうから手を差し出して握手してくれたのです。
ありがとうだなんて、お礼を言いたいのはこっちの方なのに。
Oさんの手は大きくて厚くて、あったかい手でした。
嬉しかったその夜のことを、私はずっと忘れないと思います。

その後も、学校で会ったら挨拶をしてくれたり、卒業式の日にお会いしたときは「これからも頑張って下さい」と言ってくれたり。
あの時のOさんの言葉が励みになって最後までスポを続けられたと言っても過言ではありません。
スポに入り、出会えてよかったと思えた最初の選手でした。
お元気でしょうか。今もあったかい手をしているのでしょうか。


大学に入って初めての秋は、実りの秋だったのかもしれません。
それから季節は秋から冬へと移り行き、やがてスポに入って2度目の春を迎えます。
一歩前へ〜任されるということ〜



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